アポロニア21 臨床駅伝 こんな患者さんが来たら?

マウスピース矯正中だが、奥歯が噛み合わない状態が1 年以上続いている
- 32歳2カ月、女性
- 初診:2016年11月25日
- 主訴:両側臼歯部の開咬合
- 萌出歯:
- 現症:咬合は中切歯、側切歯、犬歯のみ。小臼歯、大臼歯の開咬合を呈していた。左顎関節に開口時疼痛を認めた
- 既往歴:銀座の歯科医院にて、某メーカーのマウスピースを用いた矯正治療を2年間受けた

はじめに
近年、マウスピースによる歯の移動が盛んに行われるようになった。某メーカーのマウスピース矯正などは、1回印象を採るだけで、治療完了までのマウスピースが製作できる。
矯正治療とは、上下の歯の咬合をきちんと創り上げる医療である。マウスピース矯正ではマウスピースを装着しないと歯は動かないが、装着していると咬合時でもマウスピースの厚みの2倍以上開口している。つまり、矯正用マウスピースは「噛み合わせの治療を行っているのに、食事時以外は歯が咬んでいない」という矛盾を孕んだ装置である。この矛盾に起因すると思われる状態を呈した患者さんに遭遇したので、今回報告する。
経緯
この患者さんは、銀座の歯科医院で叢生歯列弓の改善を目的として某メーカーのマウスピースを用いた矯正治療を開始した。開始後1年くらいたったころから、臼歯が咬まなくなって食事に支障を来すようになり、顎関節痛を発症した。主治医に相談すると「治療の最後までいけば咬むようになるから」と説明されたという。
治療開始2年後に再度相談すると、臼歯部を切断したマウスピースの装着を指示された。その際「臼歯部を切断したマウスピースを装着したら、最初にコンピューターでシミュレーションして作った治療結果にならないのでは?」と疑問を呈したところ、明確な回答が得られず不信感を抱いた。
その後、セカンドオピニオンを求め当院へ来院した。


診断・治療方針
患者さんが持参した前医治療前の側方セファログラム(青)と当院初診時のそれ(黒)を重ね合わせた( 7)ところ、上顎前歯がやや挺出しながら口蓋側に傾斜移動していることが分かった。口蓋側移動のためのスペースは、臼歯歯列弓の拡大によって得られている(当院初診時の上顎大臼歯小臼歯が近心に移動しているように重ね合わされているのは、上顎臼歯幅径が拡大されたことを示している)。
しかしながら、上下顎の前歯の圧下が十分なされていないため、下顎骨が時計回りに回転し臼歯部が開咬合となっている。下顎前歯は唇側傾斜している。模型がないため写真から推測すると、幅径は上顎第1大臼歯中心窩で約3㎜拡大されていた。以上のことから、治療前の状態に戻せば臼歯部開咬合は改善できると考えた。
上下顎にマルチブラケット装置を装着し、上顎前歯に十分クラウンラビアルトルクをかけながら唇側傾斜させ、下顎骨を反時計回りに回転させて本来の下顎骨の位置に戻し、臼歯部の開咬合を改善することとした。
治療経過
.018"×.025" スタンダードエッジワイズ装置を装着し、ラウンドワイヤーを用いてレベリングを3カ月間行った後、 上下顎第2大臼歯にバンドを装着しレベリングを行った。その後、上下顎アイディアルアーチを装着し、仕上げを5カ月間行った。アップアンドダウンエラスティックを5カ月間使用した。
治療結果
臼歯部開咬合は改善されている。治療前後の重ね合わせ(11)を見ると、上顎前歯歯冠はやや圧下されながら唇側に移動している。歯根は口蓋側に移動している。それに伴い下顎下縁平面は反時計回りに回転し、臼歯部開咬合が改善している。臼歯部歯軸はアップライトされ、幅径は本来の幅に縮小されている。
考察
マウスピース矯正が孕む「咬合を治療しているのに装置を装着していると歯が咬まない」という矛盾に起因すると思われる1症例を供覧してきた。この1症例特有の現象かもしれないため、「マウスピース矯正で臼歯部開咬合が生じることがある」との仮説を一般化することはできない。
そこでこの仮説の根拠を少しだけ増すためにもう1症例供覧する。患者さんは36歳0カ月の女性で、下顎右側側切歯先天欠如(12)。上顎両側第1小臼歯と下顎左側第1小臼歯を抜歯し、某メーカーのマウスピースで矯正治療を開始。治療開始後1年11カ月後、臼歯部開咬合の状態(13)になったためマルチブラケット装置を装着し(14)、咬合を確立した(15)。口腔内写真だけの供覧ではあるが、これで複 数の症例報告ケースシリーズとなった。
最新のシステマティックレビュー(1)の全体的な結論によれば、わずかな水平方向の歯の動きを除いて、ほとんどの歯の動きはマウスピース矯正では予測できないこと、マウスピース矯正をエッジワイズ装置と比較すると、上下顎前歯の傾斜は臨床的に許容される結果をもたらすかもしれないこと、ほとんど全ての症例で追加の修正が必要になることが挙げられている。
今回示した症例は、最初の主治医の医院で治療を完了していないため、もしこの医院で研究が行われていたとしても論文の症例に含まれることはない。しかしながら、今回示した症例で臼歯部開咬合が生じたことは事実であり、世界中でこの現象が起きていることは容易に想像できる。また、このようなある意味失敗症例が公開されることはまれである。
実際の臨床では、今回示した症例のように、咬合平面の回転を伴いながら下顎下縁平面が時計回りに変化することはよく経験する。まれではあるが、下顎下縁平面が反時計方向に回転することもある。下顎が時計回りに回転すれば臼歯のII級関係は強くなる。反対に回転すればII級がI級に近づく(2)。
しかしながら、某メーカーのマウスピース矯正でシミュレーションを行って治療計画を立てる際、上下顎の対向関係は変化しない。下顎の回転など生体で起こり得る変化も治療計画には反映されない。将来的にはそれらを加味したより高度なシミュレーションができる診断ソフトが供給されるかもしれないが、現在はまだない。
マウスピース矯正を選択する際は、治療後に臼歯部開咬合が生じる可能性を認識し、それを患者さんに伝え、それが生じた時の解決策を用意した上で治療を開始する必要がある。


(1) Lindsay Robertson : Effectiveness of clear aligner therapy for orthodontic treatment : A systematic review.Orthodontics and Craniofacial Research,Advance access: https://doi.org/10.1111/ocr.12353
(2) 与五沢文夫:Edgewise System Vol. 1,クインテッセンス出版,2001年,p171.